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王威(おう い、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。 荊州の諸侯劉表の次男劉jに仕えていた。曹操が大軍を率いて侵攻して来ると、劉jは戦わずして降伏し、劉備も逃走した。このとき、王威は「曹操は我が軍を下し劉備も退けたため安心して備えを緩めているに違いないから、自分に兵数千を預けていただければ曹操を捕虜にしてみせる。曹操を捕らえれば天下も夢ではない」と劉jに申し出たが、容れられることは無かった。その後の王威の行方は不明である。 物語中の王威 『三国演義』では、劉表の部将として登場。劉備暗殺を謀る蔡瑁の指示で、同僚の文聘と共に、劉備の傍らから趙雲を引き離す役を担った。曹操が荊州に入ると、青州へ転任させられた劉jとその母・蔡夫人の護衛となるが、曹操の命を受けた于禁に襲撃されて劉j共々皆殺しにされた。ただし、この事件は『演義』のフィクションである。 王異(おうい、生没年不詳) 涼州刺史韋康に仕えた趙昴の妻。魏書楊阜伝の裴松之の注釈に存在が見られる。 三国志演義では王氏として登場する。 趙昂が羌道の令になった時、王異は西県に住んでいたが、梁双が反乱を起こし西城を陥落させ、二人の息子を殺した。王異は息子の死を見て、自分が梁双に乱暴されないよう自害する気でいた。しかし共に助かった六歳の娘、趙英を見て思いとどまった。「私が死んでお前を見捨てたなら、お前は誰を頼りにすればよいのでしょう。西施も不潔な服を着れば人が鼻をつまむという。まして私の容姿は西施ほどではないのだから」と言って、汚物を塗りつけた衣服を身につけ、物を食べずにやせ細って醜く見せた。 後に梁双は州郡と和解し、王異は乱暴されずにすんだ。趙昂の迎えが来て、娘と共に任地へ向う途中、手前三十里のところで止まって、娘に「婦人は正式な使者が無ければ死が迫っても部屋から出ないもの。昭姜(貞姜)は流れに身を投じて溺れ、伯姫は身が焼かれるのを待ちました。私が生き延びたのは、お前が心配だったからです。もう私が生きている必要はない、お前と別れる事にしましょう」と言い、毒を飲み自害しようとした。その時解毒剤があったので、一命を取りとめた。 趙昂は建安年間(196〜220)、参軍事の任に就き王異らを連れて冀城に移住した。213年に馬超が冀県を襲い、王異は自ら弓籠手を身に着け弓を射て馬超軍に応戦した。また自分の装飾品や高価な衣服を外し兵の褒美として与え、士気を高めた。馬超の猛攻により城中は飢えに苦しんだ為、刺史韋康は和議を求めた。その理由には曹操が遠くに居り、長安の夏侯淵の救援が来るまで時間が掛かると推測した事もあった。降伏には趙昂や楊阜が反対したが聞き入れられず、趙昴は帰宅して妻にその事を語った。王異は「君主には己を諌める臣下がおり、臣は危急の時に専断が認められています。夏侯淵の救援が近くまで来ていないとは言い切れません。それを待って節義を全うし死にましょう。降伏はいけません」と答えたが、趙昂が戻った時には既に韋康が馬超とのデータ復旧 を結んでいた。 馬超はその後、約束を破り韋康を殺し、趙昂の嫡子趙月を人質に取った。 馬超は趙昂を自分の為に使いたいと思っていたが信頼しできずにいた。王異は趙昂の妻の評判を聞いていた馬超の妻、楊氏に招待された。楊氏に取り入り馬超に趙昴を信頼させようと思い、「昔、管仲は斉に行き功績を立てて桓公は覇者となり、由余を引き入れたことで秦の穆公は覇者になりました。今は国が安定しはじめたばかりです。涼州の士馬こそ、セミナー の国と争うことが出来るのです」と述べた。楊氏は深く感じ入り、馬超も趙昂を信用した。彼女が上手く立ち回ったおかげで、趙昂や楊阜、姜叙の策を成し遂げる事ができたのだ。 姜叙らと馬超を討つ計画を立てた後、趙昂は「我々の計画はこの通りだが、人質の月をどうしようか」と訊ねた。王異は「忠義を立て君父の恥辱を雪ぐのに比べれば、自分の首を失っても大した事ではありませんし、まして息子がなんだと言うのです。項託や顔回は百歳まで生きたでしょうか」と叱咤した。こうして馬超を撃退し、馬超は漢中に逃げた。 その後張魯の助けを得た馬超が攻めてきた時も、王異は夫と共に祁山に立てこもり戦った。三十日で救援軍が来て包囲が解け、馬超は人質の趙月を殺した。 冀城が襲われてから祁山の守備まで、趙昂が出した九つの奇計全てに王異は参画していた。 王允(おういん 137年 - 192年)は中国後漢末期の整体 学校 。字は子師。呂布と共謀して董卓を殺害するが、その部下に逆襲されて殺害された。王宏の弟(盧弼の『三国志集解』)。子は王蓋・王景・王定。魏の太尉の王凌は甥(弟の次男)である。 前歴 王允は太原郡祁県(現山西省太谷県)の人で、若い頃に「王允は一日に千里を走り、王佐の才(王を佐(たす)ける才。主君に仕えてその人を偉大足らしめる才能)である。」と評されていた。 19歳にして郡の役人となる。当地では趙津と言う者が悪行を繰り返しており、問題となっていた。王允はこれを捕らえて処刑した。趙津の兄弟が怒って中央の宦官に賄賂を持って王允への復讐を行おうとした。宦官は時の皇帝・桓帝に事実を捻じ曲げて報告し、桓帝は王允の上司の太守(郡の長官)を投獄して処刑した。王允は太守の棺を持って太守の故郷の平原(山東省平原)まで持ち帰り、自分の親が死んだ場合と同じだけの3年間を喪に服し、喪が明けると復職した。 新しい太守の王球が大してモバイル アフィリエイト携帯 アフィリエイト も無いものを登用したのでこれを諫めた所、王球は不快に思い王允を投獄して殺そうとした。この事を聞いた刺史(州の長官)のケ盛は王允を救い出して自分の部下にした。この事で王允の名声が高くなった。 184年の黄巾の乱に際しては豫州(現在の河南省北部)刺史となり、荀爽・孔融らを幕僚に黄巾軍を撃破した。乱終結後に十常侍の張譲が黄巾軍と繋がっていたことを告訴したが、時の霊帝は張譲が謝ったことで許してしまい、逆恨みで王允が投獄された。死刑に処されるところであったが、多数の助命嘆願により、命を救われた。 董卓政権 霊帝が死去すると大将軍の何進は妹の子の弁皇子(廃帝弁)を帝位につけた。王允は何進に招かれて河南尹(首都洛陽を含む郡の長官)になり、弁が即位すると尚書令(皇帝秘書長)となった。 その後、何進は宦官たちに殺され、それに代わって董卓が政権を握った。王允は董卓に選任され、190年に司徒とされ政務を行なった。 しかし、董卓はその後の暴政により人望を失い、少帝を殺害したり、洛陽を破壊して長安への遷都を強行したことでそれが決定的になった。さらに董卓は、司空張温を袁術と内通していると誣告させ鞭によって打ち殺す、縁談を断った未亡人を棒で殺害する、百官の前で投降した兵の舌をえぐり抜き、さらに手足を切断して飲食するなど、さまざまな狂態が相次いだ。このような相次ぐ異常事態に憂慮した王允は友人の黄?・部下の士孫瑞と話し合い、董卓の暗殺計画を練り始め実施の準備を始めた。演義では、「七星宝刀」を董卓暗殺のため、壮年の曹操に渡し、董卓を暗殺する設定となっている。 結果的に、暗殺を引き受けたのは王允と同じ并州出身で、通販 の寵臣の呂布であった。呂布は董卓に信頼されてその養子となり、身辺警護を勤めていた。だが、ある時に董卓の機嫌を損ねて手槍を投げつけられたことがあった。また董卓の侍女と密通しており、このことがばれないかと恐れていた。そのような折に呂布の相談を聞いた王允は自身の暗殺計画を打ち明け、呂布を説き伏せて仲間に入れ、呂布は董卓が宮殿に来た際に彼を殺害した。 三日天下 王允は殊勲者の呂布を奮威将軍に任じ、温侯に封じた。そして董卓の残党狩りを行い、董卓の一族を皆殺しにし、董卓派と見られた官僚らを粛清した。その中には文人として名高い蔡?もいた。 しかし、呂布をはじめ多くの者が董卓の涼州兵達を特赦するよう提案するが、王允は「年に二回特赦を出すことは慣行に背く」と拒否し追放を決定。さらに呂布らは董卓の財産を協力した兵たちに賞与として分けるよう提案するが、これも拒否。また董卓に厚遇されていた為、董卓に恩を感じていた後漢を代表する学者である蔡ヨウが董卓の死を嘆き悲しんでいる事に対して投獄し、獄中で歴史書の編纂を行おうとした事(恐らく董卓を弁護する内容が含まれていた可能性もある)に対して死罪をもって対応した。このような杓子定規的な対応が後に自らの首を絞めることになる。また王允はかねてから呂布を軽視し、呂布も自分の功績を誇ることが多かった為、両者の仲は次第に悪化していった。 董卓の部下であった李?、郭ら涼州出身者は降伏を願い出たが、前述のように王允は許さなかった。李?、郭らが賈?の助言により都に攻め入ると、王允に反発した胡軫・楊定の裏切りもあり、呂布らは敗北する。 敗れた呂布は撤退時に 「さあ、共に参りましょう」 と王允に同行を誘うが、王允は 「国家の安定が、私の願いでした。これが達成されないとあれば、命を捨てるまでのことです。朝廷では幼い陛下が私だけを頼りにしているのです。この期に及んで一人助かるなどは、とても私にはできません。どうか関東の諸侯によろしくお願いします。天下のことを忘れないようにと、お伝えください」 と処刑を覚悟で、長安に残った。 呂布を破った李?らは長安へ侵入し、董卓暗殺に加担した有力者らを次々と殺害、献帝の避難所に迫った。献帝は李?らを責めるが、李?らは「陛下に忠を尽くした董卓暗殺の復讐をしたまでのこと、終わり次第、罪を受けます。」と弁明し、行き場を失った王允は逮捕され処刑、家族全員が晒し首となった。齢57。 長安の人々は、老若男女、全員が涙を流した。 彼の墓は河南省許昌郊外にある。 連環の計 『演義』に於いては貂蝉と言う美女を使って董卓と呂布を仲違いさせることになっている。この策を「連環の計」と呼ぶ。この話は上述の呂布が董卓の侍女と密通していたと言う話から創られたと考えられる。漢室の忠臣として描かれているが、正史ではそのような評価はなされていない。