- 普通銀行
- 賈龍(かりょう、生年不詳〜191年)は、中国後漢末における益州の従事。 蜀郡・?為郡などに割拠した豪族で、同僚に任岐や陳超などがいる。後漢の衰退に乗じて馬相・趙祇ら数万人の賊徒等が反乱を起こした時、千余人の兵を率いて反乱を鎮圧した。 そして益州牧の劉焉を迎え入れ、反乱で荒廃した益州の地を復興させようと画策したが、劉焉の本心を知らなかった彼等豪族達は、劉焉の独断専行を許してしまい、そのような情勢の中で豪族仲間である王咸・李権等がこれに反発し、処刑されることになってしまった。この想定外の事柄に、かつて劉焉を迎え入れる尽力をした賈龍らも劉焉に背いたが、羌族と協力した劉焉の勝利に終わり、敗れて殺害された。 正史においては、曹操が荊州を制圧したときの長沙太守であり(『三国志』蜀書黄忠伝)、金旋や劉度らと共に劉備の軍勢に降伏した(『三国志』蜀書先主伝)という記述しかない。これ以降、史書に登場しないため、生死を含め韓玄の動向は不明である。一方で、韓玄の指揮下にあった黄忠は、その後劉備陣営の主力武将として大いに活躍した。 なお長沙には、韓玄の墓が現存している。 物語中の韓玄 『三国演義』では、生まれつき気が短く、みだりに人を殺すので恨みを買っていたとされる。また、魏に仕えた韓浩の兄とされているが、正史にはそのような記述は無く、創作の関係である。 荊州平定をめざす劉備の配下である関羽が攻めてきたとき、当時家臣であった黄忠を出陣させて対抗したが、黄忠が関羽と内通しているのではないかと猜疑し、黄忠を捕らえて処刑しようとする。しかし、逆に民衆を煽動して反乱を起こした魏延によって殺害された。後日、韓玄の遺体は、黄忠により長沙城外に手厚く葬られている。 なお、横山光輝の漫画『三国志』では、韓玄は悪代官風の姿で登場し、具体的に暴政を振るっていた様も詳細に描き出されている。また、光栄(コーエー)の『三国志』シリーズなどのゲームでも、ほとんどが悪人面の老人に描かれ、低水準の能力値の武将として扱われており、日本での韓玄のイメージの固定化を助長していると思われる。 しかし、史書からは、韓玄がそのような暴虐な人物であった根拠となる記述が全く見当たらない。単に、黄忠・魏延の劉備陣営参加を盛り上げるための演出と思われよう。韓浩(かんこう、生没年不詳)は、後漢末期の武将、曹操配下。字は元嗣。 司隷河内郡の人。後漢末の乱の中で人を集めて盗賊から自衛し、河内郡の太守・王匡の従事となった。董卓が舅の杜陽を人質にして、韓浩を招いたが彼は応じなかった。これを聞いて袁術が彼を騎都尉とした。その後、同じくFX 韓浩のことを伝え聞いた夏侯惇に見出され、曹操に従い兵を率いるようになった。 武勇に優れ、呂布との戦いなどで活躍した。夏侯惇が人質となった際には、主のいない軍をまとめ、かつ人質を取った者に対し人質を気にせず厳しい態度で臨んで事態を収拾し、結果として夏侯惇も助かっている。政治的にも優れ、曹操に対して屯田を行なうように提言している。護軍(後に中護軍)となって曹操の軍の中核を担っている。智勇に優れ、多くの功績を挙げた韓浩は曹操から大いに信任された。張魯を破った後、漢中を守る将として韓浩を推す声が強かったが、曹操は「護軍無しにはできない」と難色を示し、夏侯淵が守将となった。列侯に封じられ、のち病死した。韓浩が死んだとき、曹操はその死を惜しんだという。 『三国志演義』では長沙の太守・韓玄の弟とされているが、正史にそのような記述は無く、『演義』の創作であると考えられている。『演義』では、黄忠が自分の兄を討ち取ったと思いこみ、漢中攻防戦で張?と夏侯尚と共に兄の恨みを晴らすべく黄忠・厳顔を攻めた。しかし、逆に敵の策にかかり敗走し夏侯徳の陣にまで逃げ帰り、そこに出陣してきた黄忠に対し一騎打ちを挑むものの、逆に討ち取られた。 「韓約」とも呼ばれることもある。霊帝の時代、涼州で羌族に押し立てられ、辺章・北宮玉・FX 李文侯らと手を結んで後漢に対して反乱を起こした。これは董卓によって鎮圧されたが、その後も羌族の支持を受け、涼州に割拠した。辺章・北宮玉を殺すと、王国を馬騰と共に擁立し、馬騰と義兄弟の契りを結んだ。『三国志演義』では、馬騰配下の一人のように描かれているが、実際は涼州に勢力を持つ群雄の一人である。ただ、韓遂は常に他人を表に立て、自らは裏で実権を握るようにしたという。初めは辺章、次に王国を表に立て、さらに王国を廃すると(おそらく殺害して)、馬騰を立てた。 192年に降伏するが、同年の夏4月に董卓が呂布と王允らに殺され、さらに李?がその王允を殺し、呂布を追い出して自分の政権を成立させると、劉焉と共同でこれを攻めたが戦線が膠着し撤退。涼州を巡って馬騰とも対立し、一転して互いに一族を殺し合う有様となった。官渡の戦いを控えた曹操・鍾?の仲介により講和し、その後も袁紹戦で曹操に協力した。馬騰が曹操の強い要請で朝廷に出仕し、?に移住すると、その子の先物取引 を表に立てた。 曹操が漢中の張魯征討に出兵すると、韓遂らは張魯攻撃にかこつけ通り道に当たる自分たちを攻撃するのではないかと危惧し、馬超・楊秋ら西涼の武将とこれに呼応して曹操に対して反逆した。しかし曹操の離間策にはまって馬超と対立し、馬超と袂を分かった上で涼州に引き揚げた。この時、韓遂の息子と孫は曹操に皆殺しにされている。 後に曹操の武将・FX 夏侯淵が涼州平定のために攻めて来ると、これと懸命に戦ったが敗れ、金城に逃走した。韓遂は蜀に逃げようかと配下の成公英に漏らしたが、成公英は抗戦を主張し、韓遂もこれに従った。しかしまもなく麹演・蒋石らによって殺された。または、病死したところを首を斬られ、曹操への手みやげにされたともいわれている。70余歳だったと伝えられる。 三国志演義では 『三国志演義』では、馬超の忠実な同盟者として「手下八部」(楊秋、侯選、張横、程銀、成宜、李堪、馬玩、梁興)を率いて曹操と戦った。しかし、曹操配下の賈?(かく)の離間の計にはまり怒った馬超によって左腕を落とされ、その後曹操に降伏し関内侯に封じられ、夏侯淵と共に涼州に留まった。 また、年齢は史書と異なり172年生まれとなっている。これは、韓遂の父が曹操と同年の孝廉に推挙されたという記事から、曹操の息子に近い世代に設定されたものであろう。また、裴松之が『魏書』「武帝紀」の注に引く『魏武故事』には曹操の布告として、同年に推挙を受けた中でも五十歳になっていた者がいたと述べられている。実際の韓遂の年齢から(上記にあるように、不動産 よりも年上である)、その人物が韓遂の父親であった可能性も考えられる。 韓嵩(かんすう、生没年不詳)は、後漢末期の政治家。字は徳高。 荊州南陽郡の人。劉表に仕え、政治・外交において才能を発揮した。曹操と袁紹の対立が明確になると「殿が天下を狙うのでしたら両者の疲弊を狙って攻め立てるべきです。もし、その志しがないのないのでしたら曹操に帰順なさるべきです」と劉表に進言した。?越も同様の進言をしたが、それでも劉表は決断できず、韓嵩に曹操のもとへ視察に赴くよう命じた。韓嵩は「もし私が天子様から官職を賜りましたら、天下の臣下となり、殿のために命を投げ出せなくなります」と述べたが劉表はかまわず派遣を命じた。 はたして韓嵩は献帝から侍中に任じられ、帰国すると劉表に曹操との内通を疑われ処刑されそうになった。重臣や蔡氏のおかげで死刑は免れたが投獄された。劉表の死後、後を継いだ劉jに対して曹操への降伏を進言、自身も曹操に仕えた。 関靖(かん せい、? - 199年)は、中国の後漢時代末期の政治家、武将。字は士起。并州太原郡の人。 北方の諸侯公孫?配下の長史。もともとは酷吏(厳罰主義の官吏)として知られ、おべっかばかりで雄大な計略の無い人物だったが、小人を信用するとの評があった公孫?に寵愛されていた。 建安3年(198年)、袁紹が公孫?に対して総攻撃を開始すると、関靖は、物量や兵力の差から易京に立て篭もる慎重策を進言し、公孫?に受け入れられる。なお、南宋時代の史家胡三省も指摘するように、この関靖の進言自体には理があり、また、かつては袁紹配下の勇将?義をこの戦術で撃破したことがあった。 しかし、この時は、袁紹陣営の智謀が勝った。翌建安4年(199年)、袁紹軍は地下道を掘って易京を陥落させ、公孫?を滅ぼしたのである。主君の敗北を知った関靖は、自分の進言で主君に土をまみれさせた事を嘆き、敵陣に突撃して主君と運命を共にした。関靖の首級は、袁紹の命により許へ送り届けられたという。 なお、関靖は『三国演義』には登場しない。