- 年金基金
- 鞏 志(きょう し)は、中国の白話歴史小説『三国演義』に登場する架空の武将。 後漢末期の武陵郡太守金旋配下の従事として登場。劉備の部将張飛が攻めてきた際、金旋に降伏を進言する。しかし、金旋は怒りだしてこれを処刑しようとするが、他の部下の諌めで思いとどまる。 結局、張飛に敗北して逃げ戻ってきた金旋に対し、鞏志は無駄に兵士を死なせたとしてこれを射殺し、首級を張飛に献上して降伏。鞏志は劉備から武陵太守に任ぜられるが、その後は登場していない。 なお、この後魏延が長沙太守韓玄を殺して劉備に投降したところ、諸葛亮は魏延を不忠だとして処刑しようとしており、鞏志の例と比較するといささか脚色上の矛盾が生じている。 橋瑁(きょうぼう、Qiao Mao ? - 191年)は、後漢末期の政治家(東郡太守)。字は元偉。文献によっては喬瑁と記されていることもある。 北海郡高密県の出身。橋玄の一族とされるが、続柄は明らかではない。若い時から威厳と恩情を兼ね備え、人望は厚かったとされる。 189年に三公の公文書を偽造し、董卓に対する挙兵を呼びかける檄文を作った(反董卓連合にも孔?と共に参戦している)。その後、劉岱と対立し殺害された。 若い頃の曹操を高く評価していたという。しかし『演義』では、檄文を作ったのは橋瑁ではなく曹操ということにされている。 許貢(きょこう、生年不詳 - 建安5年(200年))は中国・後漢末の官僚。 後漢末に官僚となり、FX の都尉、のち同郡の太守を勤めた。『三国志』蜀書・許靖伝には彼と旧交があった旨を記載している。また、袁術が後漢の朝廷に反乱を起こして皇帝を自称した際に、袁術に味方した周?が故郷の会稽に帰還した際、許貢は彼を処刑している。 建安5年(200年)、『三国志』呉書・孫策伝が注に引く『江表伝』によると、許貢は急激に江東に勢力を拡大した孫策を警戒し、朝廷に「孫策は傑出した勇武の持主であり、項羽と似たところがあります。ぜひとも恩寵を与え、都(当時は許昌)に召還しましょう。もし召還せずに地方に放ったままにしておくと、必ず禍いを招きます」と上表した。ところがこの上表を孫策配下の官吏(下級官僚)が確保し、孫策に見せた。孫策は許貢と面会し、彼にこれを問いただしたが、許貢は自らの書いた手紙ではないと否定した。このため孫策は、配下の兵士数人に命じて許貢をくびり殺させた。 許貢の死後、彼の客人3人が復讐として孫策の殺害を計画し、実行した。襲われた孫策は自ら3人とも斬り殺したものの、3人の内の誰かが放った矢の一本が頬を貫いており、これがもとで孫策は病死した。 許(きょ し、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の政治家。 最初は曹操配下で、従事中郎にFX 任命されていた。興平1年(194年)、曹操が陶謙を討伐するために徐州に出征すると、張?、外為 、陳宮、王楷らと共に、呂布を迎え入れて曹操に叛旗を翻し、?州のほとんどを制圧した。これ以降は、呂布配下として活動する。 建安3年(198年)冬に、呂布が曹操に敗退して下?城内に追い詰められると、許と王楷は、袁術の元へ救援要請の使者として赴く。前年の呂布との対立経緯から、袁術は援軍を拒絶する姿勢を示していた。しかし許と王楷は、呂布が滅びれば次は袁術が攻められる番であると口説き、呂布の娘を送るという条件で、何とか袁術に救援を受諾させた。しかし、呂布は曹操軍の包囲を突破する状況になく、実際には袁術の救援を得ることができなかった。 許の器量 呂布滅亡後、許は荊州の外国為替 を頼ってその客人となった。ある席で、劉表、そしてやはり劉表を頼ってきた劉備と天下の人物を議論する機会があり、その席で許は、一時は呂布の下で同僚だった陳登を「横暴な(「豪気不除」)人間」と非難した。劉備がその意を聞くと、「陳登は客人をもてなす心がない。私と長い間口をきいてくれず、自分は寝台で休み、私を床に寝かせた」と許は答える。それに対して劉備は、「貴方は国士としての名声がありながら、宅地を求めるばかりで、ろくな進言もしない。それを陳登は忌み嫌ったのです。私なら、自分は寝台どころか百尺の楼上に寝て、貴方を床どころか更地に寝かせますな(陳登は、まだ優しい)。」と斬って捨て、劉表は大笑いした。 これ以後、許の名は史書に見えない。 物語中の許 『三国演義』でも、王楷と共に曹操軍のFX 取引 を突破して袁術に救援を求めており、経緯も結末も、ほぼ史実に沿ったものとなっている。ただ、残念ながら、劉備との興味深いやり取りは、採用されていない。 許攸(きょ ゆう、? - 204年)は、中国の後漢時代末期の参謀、政治家。字は子遠。荊州南陽郡の人。 『三国志』魏書袁紹伝注に引く『英雄記』によれば、弱年の頃は袁紹や張?と「奔走の友(心を許しあい危難に駆けつける仲間)」の交わりを結んだという。後漢の霊帝の時代、冀州刺史の王芬と手を組んで霊帝を廃して合肥侯を皇帝に擁しようと画策したが、失敗して逃亡し、袁紹の配下となった。建安4年(199年)頃には、田豊・荀ェと並び称される袁紹陣営の参謀となっている。 しかし、上記のように朝廷に対して造反を画策したこと、性格的に金銭に強欲な所があったことなどから、進言が袁紹に容れられることはほとんどなかったと言われている。建安5年(200年)、官渡の戦いのとき、袁紹に曹操側の本拠・許昌と兵站路を襲撃し、曹操軍の死命を制する戦略を進言したが受け入れられなかった。また、ほぼ時を同じくして、許攸の家族が法を犯したとして審配に逮捕されてしまう。 曹操の参謀荀ケは「許攸は貪欲で身持ちが修まらない」、「審配と逢紀は、許攸の家族の犯罪を見過ごせない」と指摘していたが、まさにその通りの事態となった。 曹操への寝返りと最期 外為 のことなどもあり、ついに袁紹を見限り、曹操に寝返った。そして、曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地・烏巣の守備が手薄なことを教えて、奇襲をかけるように進言する。これが成功して烏巣は陥落し、曹操の部将楽進が淳于瓊を斬った(『三国志』魏書楽進伝)。なお、『三国志』魏書武帝紀注に引く『曹瞞伝』によると、曹操は、鼻を削がれて捕えられながらも潔さを保つ淳于瓊を惜しんで処刑することをためらったが、「鏡を見れば我々を恨みますぞ」と許攸が進言したため、曹操は淳于瓊を処刑したとされる。ただし、『曹瞞伝』は史料としての信憑性に難があることを考慮する必要がある。 烏巣攻撃により、曹操軍の勝利は決定的となった。しかしFX はその功績に驕り、また、旧知(少年期の親友であったという)であったことから曹操になれなれしい態度を取った。しかも、自分が曹操に味方しなければ冀州攻略はできなかったといつも自慢し、曹操は内心その態度を嫌悪した。建安9年(204年)、曹操は?を攻め落として、審配を斬った。許攸は?の東門を通った時、またしても「この男(曹操)はわしを手に入れなかったら、この門を出入りできなかっただろう」と左右に自慢した。この発言を曹操に密告され、とうとう処刑されてしまった。 人物像 上記の荀ケの評価に加え、後に皇帝を僭称した袁術にも、許攸は貪婪淫蕩にして不純の人物と侮蔑されている。ただ、平原郡の名士陶丘洪は、袁術の言う許攸の欠点を認めつつも、危難に立ち向かい、泥をかぶることを厭わない人物であると評価、弁護している。 物語中の許攸 『三国演義』でも史実通り曹操に寝返っており、主に『曹瞞伝』を題材にその過程が描かれている。死因について、史実と異なり曹操は許攸の自慢を笑って聞き流しているが、代わりに腹を立てた部将許?に殺害されている。 NHK『人形劇 三国志』 1982年〜1984年にかけてNHKで放送された『人形劇 三国志』では一時期、許攸(声:松橋登)が曹操の筆頭軍師をつとめるような描写がある。第19回「官渡の戦い」で初登場し、史実や演義通り袁紹から曹操に寝返り烏巣の兵糧庫の位置を教えそこへ奇襲するように進言する。その後、第21回「玄徳の結婚」の終盤にて曹操の軍師をつとめていた郭嘉が死亡し、第22回「軍師登場」で許攸が突如再登場し郭嘉の後を継ぐ形で軍師となっている。劇中では劉備についた軍師が単福(徐庶)であると見抜いたり、その単福が曹操を欺き殺そうとした際にはこれを守り単福を刺し殺したりと活躍しているが、第33回「赤壁の戦い」では?統が曹操に連環の計を進言した際、許攸はこれに用心するよう曹操に忠告するが聞き入れられず、忠告を無視され嫌気がさしたのと、絶体絶命の危機に陥り命が惜しくなったため?統から策を授かり、曹操陣営から逃亡したところで出番が終わっている。なお、劇中において「許攸が曹操の軍師である」と明言されるような場面はない。